シングルマザーとしての生活と家族のこと

シングルマザーとしての生活と家族のこと

今ふり返ると、ほんまにようやってきたなぁ…と思います。
夫との別れ、母の介護、娘の受験、そして仕事と家事の両立。
色んなことがいっぺんに押し寄せてきて、それこそ 必死のパッチ な数年間でした。

でも頑張り抜いたからこそ、あのとき苦しかった日々も、笑い飛ばせるようになった今、
このブログを通じて、誰かの力になれたら――そんな思いで、家族のことも少しずつお話ししていこうと
思います。

1.突然始まった母の介護

そもそも母は、元気で自転車で近所を走り回っているような人やった。
それがある日、何がきっかけやったのか、ある日突然急に足腰が弱り、
何か支えがないと歩けなくなったんです。

私が再婚で田舎町へ嫁いで行くことになった時、
そんな母にも一緒に行こうと説得したけど、
長年住んだ地、長年住んだ家を離れ、見知らぬ土地、
しかも夫や夫の母親がいる家に
世話になる気持ちにはどうしてもなれなかったようです。
無理もないですよね。

そんな中、後ろ髪引かれつつも、できるだけ母の生活を支える
福祉サービスのお膳立てだけはしっかりして、
母の元を去るしかありませんでした。
今振り返れば、よくあんな薄情なことができたものだ、と自責の念に
かられ、何度でも涙が出てきます。

2日に1度のペースで電話で声を聞いたり、ご近所さんに様子見をお願いするなどしてたけど、
母の不安を察してはもどかしい毎日でした。


9ヶ月が経った頃、実家の向かいのおばちゃんから1本の電話が!
母が栄養失調状態で立つこともできなくなり、救急車を呼んだ、
そのまま入院した
とのこと。
急いで色々な段取りをつけ、京都の母の元へ駆けつけました。

体がもどって退院しても、もうひとりで暮らすのは無理と考え、
夫の申し出もあって私の住む田舎の家に引き取ることを決めました。
このときばかりは、母も自分の体が思うようにならず、
もう選択の余地はないと感じたようでした。
そして、その1ヶ月後くらいでしょうか、バタバタと必要な荷物をまとめて、
母を私のもとへ連れて帰りました。

夫との決別、3人での再出発

再婚と新しい土地での生活

彼とは再婚でした。
幼なじみで、お互いのことはよく知っていたつもりでした。
私のことを望んでくれて、私は心機一転の気持ちで思い切って田舎町に嫁いだのです。
それまで互いにそれぞれつらい人生経験もし、これからは一緒に残りの人生を楽しく過ごせれば、
という気持ちでした。
周囲からは「優しい人」と評判の彼に娘もなついていたことが、背中を押したのですが、
一緒に暮らすうちに、どうしても彼の思考回路が理解できない、と感じる場面が増えていったのです…。

見えてきた違和感

何度説明しても同じ話をぐるぐる繰り返す。


論点をすり替えるので話がかみ合わなかったり、言葉の中に矛盾があったりで口論が多くなりました。
さらに、言葉の暴力——義両親の前で侮辱的な発言をされ、不信感が蓄積されていきました。

母の受け入れと、夫婦関係の亀裂

母を引き取る時はよく動いてくれて本当に感謝していたものの、
そんなこんなで私たちは次第にぎくしゃくしていきました。
2人の間のことならまだ、「あほな人やな」と心で思っても、
けんかしたり収まったりしながら、やっていけたかも知れないけど、
彼の母親が加わるので、よけいにややこしくなって
いったように思います。

ある日、私は心の中で「この話を冷静にして彼が切れたら、もう終わりやな」と腹をくくって、
ある話をし出したことがありました。
すると、案の定、切れた態度をとりだした彼を冷静に把握し、私は自分の決意を告げました。
「もうはっきしりしたわ」と。
「これであなたが切れたら、もう終わりやと思ってた。もう迷いないわ」

行きがかり上、その日のうちに家を出る流れになっていまったことは予定外やったけど!

決意と再出発

彼は後になって、強く後悔し、何度も家に戻るよう説得してきました。

彼が強い態度に出てたのは「脅し」のようなもので、
私が謝りさえすれば許してやろう、と思ってたんやろうな。
私を教育しようとしてたんです。
が、私の決心は固いものでした。自分の正しさに自信を持っていたし、間違ったことに
ひれ伏すつもりはさらさらなかった。

もう決めた。母と娘、3人で新しい生活を始める!
そうして、私たちの本当の再出発が始まったのです。

ああ介護、な日々

入院で体調を整えて退院してきたとはいえ、引き取った当初、
母の体の状態は最悪で、ほとんどベッドに横たわって過ごし、
摂る食事も最低限の量でした。
日常の些細な動作ひとつにも手がかかり、母の体調や精神状態に
一喜一憂する日々。

この頃、母は頻尿がひどく、昼夜問わずふらつく足取りで
何度もトイレを往復するので、
こけたりしないか付き添って歩かねばなりませんでした。

夜もトイレが頻回で、母も私も寝られないので色々な病院に相談に行ったけれど

精神的要因もあるのかなかなか解決せず、一時はお昼に
導尿(管を入れて尿を出す)してもらっていた時期もありました。

田舎へ来てあらためて介護認定を受け(要介護3でした)、週3日デイサービスに通うことをお願いしました。
ベッドの上でじっとしていては、どんどん寝たきりに近づくばかりや。
人と接し活動することで、よい方向に向かうことを祈って…。

 

受験生の娘

母の介護と仕事に追われる日々の中で、もうひとつの心配は娘のことでした。

田舎の高校は、進学校とはいえ、そこまでレベルが高いわけではなく、
高校受験は難なくクリアして進学してくれた娘。

幸いなことに、私たちの新しい家となった借家から娘の通う高校までは
徒歩5分、という好立地。通学の負担が少なかったことは、本当に助かりました。

ただ、田舎の進学校は朝夕の課外授業がびっしり詰まっていて、娘は毎日の授業量の多さに辟易してました。
しんどい、しんどいといいながらも、よく頑張ってたと思います。

3年後に京都に帰ることを見すえて、大学は京都の実家から通える学校に絞ってもらうことにしました。


母の介護と仕事でいっぱいいっぱいやった私は、娘に「あなたを大丈夫やと信用してるし、自分のことは自分でちゃんとやっていってや、頼むで」と、お願いしていました。

実家の片付けやリフォームの準備のために私が京都に帰るときには、母を施設の
ショートステイに預けるようにしていました。
でもその間、娘は家で一人。すごく心配やった。
田舎とはいえ、なにか事件が起こったら…。
火の元と施錠、健康管理には十分注意するように言い聞かせ、何より「一人で家にいることは絶対に誰に言うたらあかんで」と言い聞かせました。

心配しながらも、娘の自立を信じて任せていた日々。思春期の葛藤と進路への不安を抱えながら、私を助けて精一杯の日常を送ってくれてたと思います。

仕事復帰と家事の両立

母がデイサービス通いに慣れ始めた頃、本腰を入れて仕事探しをし始めました。
とはいえ、田舎ではなかなかよい仕事が見つからない…
というか、仕事自体が少ないねん〜!

もう最終手段を使うよりほかなかった…。資格を持っている、保育の仕事。若い頃、子どもたちのピュアさと大人の世界のドロドロが混在する
職場環境が嫌になって

Image by Brendacfeyc from Pixabay子どもはずっと大好きやったけど保育関係の仕事につくことは二度とない、と思ってた。若い頃、子どものピュアさと大人のドロドロが混在する職場環境にしんどくなって、

逃避した経験があったのです。
しかも、もう体力に自信がない。

しかーし!もう選んでる余地はなかった…。

隣り村の保育園の求人に恐る恐る応募したところ、難なく職を得られました。

母がデイ施設にいる間やから、時短のパート保育士やったけど、

きつかったなぁ。
かなりブランクがあったし、昔のように若くないもん!
それに、この仕事のしんどさって、肉体的なものもさることながら、
職場の人間関係に神経すり減らす、精神的しんどさも相当なものなのよね…。
地域性の違いもあるし、最初のうちは他の先生方となんかしっくりいかへん
感じやった気がする。

UnsplashAbbie Bernetが撮影した写真

職場という戦場から帰るともうヘトヘト。泥のようやった。
母がデイサービスから帰って来る時刻までにギリギリセーフで帰り着いて、
そこから洗濯物の片付け、晩ご飯の準備。

夏場はあまりに疲れて、「10分だけ」と横になることもあったな…。
下校して帰って来る娘との会話も、なるべく大事にしたい。

とにもかくにも2人に晩ごはんを食べさせて、
母が寝床へ送れば、その日の仕事は終了!
娘も自分の部屋へ行った後、一人になると勝手にまぶたが落ちてきて
知らんうちに、座ったままでもウトウトしてるような日々やったな。

仕事復帰、家事との

Image by jotoya from Pixabay

母の介護と家事、仕事のに追われる中で、私はひとつの決意をしました。
それは、遠方にある実家の片付けとリフォームを一人でやり切ること。

寒がりな母を、古くて寒い実家を快適に直して住まわしてあげたい!
そして、私たち3人が将来的にそこで心地よく暮らせるようにしたい!

しかし、実家は京都、今は遠い田舎の町。
実家の片付けを遠方から進めるというのは、簡単なことではありません。
家の中には物があふれ、手をつける前から気が遠くなるような状態。
築年数が古く片付けと同時大規模なリフォームの計画も必要だと
感じていました。

実家をどう整理し、どう活用していくのか。
行ったり来たりで無理しながらも片付けは進められるやろう。

でも、遠くにいて立ち会うこともできない状態で、リフォームするって
現実的に可能なの?!
頭の上には大きな大きなはてなマークが立っていました。

「やるしかない!!」――そう自分に言い聞かせて、まずはカレンダーとにらめっこ。
仕事や娘の学校行事の合間をぬって、実家へ帰省できる日程をピックアップし、片付け計画を立て始めたのです。

心の支えとなった恩人

母の介護、娘の受験、仕事復帰、実家の片付けとリフォーム計画。
私は毎日、必死で走り続けていました。
夫の元を飛び出した時は、泣いても泣いても涙がわいてきてしかたがなかった毎日。
そんなとき、ずっと私を支えてくれていたのは、「恩人」の存在でした。

UnsplashAnastasia Pivnenkoが撮影した写真

彼女はそもそも夫の知人として出会った人やけど、知り合ううちに私の方が仲良くなって、一時私が彼女の事業のお手伝いをしたことがあったのでした。
夫への不信が積もり始めていた頃、
「何かあったら相談にのってね」なんて冗談めかしに言っていたのが、こんなにも早く現実になるとは…。
そもそも、私があんなに突然家を出てこれたのも、
この人のおかげでした。
家を出たその足で相談に行ったら、すぐに状況を察して、彼女が所有する借家の鍵を差し出してくれはったのです。

血のつながりがなくても、心がつながる人との出逢いって、人生の中であるもんなんやなぁ…。

忙しい仕事の合間にも、「あんたは間違っとらんて」「大丈夫、見る人は見てるから!」と、

くり返しくり返し励ましてくれました。

京都での片付け作業に行くときも、「気ぃつけてな」、戻ってからも「すごいなぁ」と労ってくれる。言葉の力って、ほんまにすごい。
人の優しさって、温かい。

あのとき彼女がいてくれへんかったら、私はもっとボロボロやったやろう。

私の人生の転機に出逢った「恩人」。感謝してもしきれない。


 

 

 

 


 

 

 

 

 




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