振り返ると、ほんまにようやってこれたなぁ…
って感じ、です。
夫との別れ、母の介護、娘の受験、そしてブランクを
経ての仕事、故郷との地域性の違い。
色んなことによる軋轢でマインドはグチャグチャ(笑)。
関西でいう”必死のパッチ” な数年間でした。
でも頑張り抜いたからこそ、苦しかった過去も、
笑い飛ばせるようになった…。
そんな今。
このブログを読んで下さる誰かの励みに
なれたら…
そんな思いで、シングルマザーである私と
家族のことを少しずつお話ししていきますね。
1.突然始まった母の介護

Image by Sabine van Erp from Pixabay
そもそも私の母は、元気に自転車で近所を走り回っているような人やったんです。
それがある日、何がきっかけか突然急に足腰が
ガタンときて、支えがないと歩けないようになったんです。
普段 アクティブだっただけに、最初は一時的なものかな、と軽く考えていたのですが、そうではなかったんです…。
そんな一方、私は再婚で田舎町へ嫁いで行く話が進んでいました。
急に元気がなくなった母を一人残して立つのはさすがに気が引けて、結婚相手の
勧めもあって、一緒に行こうと提案しました。
でも、長年住んだ地、長年住んだ家を離れて、見知らぬ土地、しかも夫や
夫の母親が同居する家に世話になる気持ちにはどうしてもなれなかったよう
です。
…無理もないことです。

Image by Sabine van Erp from Pixabay
母の生活をサポートしてくれるサービス、訪問ヘルパー、緊急通報システム、宅食
サービスなどに申し込み、安全対策だけは
しっかり整えて、後ろ髪を引かれつつも
母を残して、娘と共に田舎へと移住しま
した。
今思えば、よくあんな薄情なことができたものだ、と自責の念にかられるばかりです。
孤独にさせまいと、2日に1度は電話を掛けたり、ご近所の方に様子見をお願いするなどしてはいたけど、母は電話口でしょぼくれるばかりでした。
9ヶ月が経った頃、実家の向かいのおばちゃん
から1本の電話が!
嫌な予感しか、なかった…。
母が栄養失調状態で立ち上がることすらできなくなり、おばちゃんが救急車を
呼んでくれた。そして、そのまま入院した、という内容でした。
遂にこんな日がきたか。
急いで段取りをつけ、京都の母の元へ駆けつけました。
弱々しく病院のベッドに横たわっている母がいました。

Image by Engin Akyurt from Pixabay
少しおかしなことを言っていました。
私と電話で話していたことを実際に
会って話したのと混同しているようで、
いくら見ても顔が見えなかった…などと言うのです。
病院に入院すると、環境の変化によって認知症になりやすい、などとよく聞き
ます。
この頃から軽い認知症の症状が出始めていたのです。
ある程度 体調がもどって退院したとしても、もう
ひとりで暮らすのは無理と考え、夫の申し出もあって私の住む田舎の家に引き取ることを決めました。
このときばかりは母も自分で体が思うようにならないのだから、もう選択の余地はないとあきらめ、同意してくれました。
いったん田舎の家に帰った私は、母を迎えられるよう、家族の協力を得ながら部屋を整え、1ヶ月後の退院時に夫と共に大型車で再び京都へ。
実家の母の衣類や布団、身の回りのめぼしい物をまとめて、母と共に車に載せて私の住む田舎へ連れて帰りました。
当時、ひどい頻尿だったので、道中のSAで何度 母をトイレに連れに行った
ことかわかりません。
夫との決別、3人での再出発
再婚と新しい土地での生活
さて、母の同居にも協力してくれ、私がつらい
時にやさしく支えてくれた夫。
彼とは再婚でした。
幼なじみで、お互いのことはよく知っていた
つもりでした。
私が来てくれるならそれだけでいい、と望んでくれて、私は心機一転の気持ちで思い切って田舎町に嫁いだのです。
それぞれつらい人生経験もし、これからは残りの人生を互いに思い合って
楽しく過ごせれば、という気持ちでした。
昔はやんちゃをしていたけれど、周囲からは「家族思いで優しい人」と評判の彼で、娘もすぐになついて仲良くなったことが私の背中を押したのですが、一緒に暮らし始め、どうしても彼の思考回路が理解できない、と感じる場面が増えていったのです…。
見えてきた違和感
何度説明しても同じ話をぐるぐる繰り返す。
論点をすり替えるので話がかみ合わなかったり、言葉の中に矛盾があったりで口論が多く
なりました。
さらに、言葉の暴力——義両親の前で侮辱的な発言をされ、不信感が蓄積されていきました。
常識人と信頼していた義両親が、2人の言い分を正しくジャッジし、
暴走する彼をいさめてくれなかったことにも、大変落胆しました。
母の受け入れと、夫婦関係の亀裂
母を引き取る時はよく動いてくれて、そのことについては本当に感謝して
いたものの、そんなこんなで私たちは次第にぎくしゃくしていきました。
2人の間のことならまだ、「ホンマにあほやな」と呆れたとしても、けんかしたり収まったり
しながら、何やかんややっていけたかも知れんけど、私達にはそれぞれの家族がいた…
口論になった時にも彼の母親が口を突っ込んできて、あからさまに彼の味方についたわけではないけれど、何となく2対1の様相を呈していったように思います。
私は「嫁」なんだな、と感じました。
ある日、私は心の中で「この話を冷静にして彼が切れたら、もう終わりやな」
と腹をくくってから、1つの話をし出したことがありました (詳細をお話しても
当事者でないとピンとこない内容ですので、控えさせて頂きますが)。
案の定、切れた態度をとりだした彼を冷静に観察し、私は自分の決意を
確固たるものにしました。そして静かに、
「もうはっきしりしたわ」と言いました。
「これであなたが切れたら、
もう終わりにしようと決めて
たんや。これではっきりした。
もう迷いはないわ」
行きがかり上、その日のうちに家を出る流れになってしまったことは予定外やったけど!(苦笑)
決意と再出発
郷里から遠く離れた地にやってきた私が、まさか家を出るなどということは
ないだろう、とたかをくくっていたのでしょう。
予想だにしなかった私の行動に慌てても、後の祭りでした。

Image by Gerd Altmann from Pixabay
彼は後になって、強く後悔し、何度も家に戻るよう説得してきました。
彼が強い態度に出てたのは「脅し」の
ようなもので、私が頭を下げれば許してやろう、と思ってたんやろうな。
私を教育しようとしてたんです。
が、私の決心は固いものでした。
自分の正しさに自信を持っていたし、間違った
ことにひれ伏すつもりはさらさらなかった。
もう決めた。母と娘、3人で新しい生活を始める!
こうして、私たちの本当の再出発が始まったのです。
それにしても、予期せずして、突然 家を出ることになってしまった私達。しかも夜9時頃だったろうか…
夜の闇の中。
その夜から、私達がどうやって過ごしたか。
それはこの後の記事でお話しすることにしますね。
ああ介護、な日々

UnsplashのImad Alassiryが撮影した写真
入院で体調を整え退院してきたとはいえ、
引き取った当初、母の体の状態は最悪で、ほとんどベッドに横たわって過ごし、摂る食事も最低限の量でした。
日常の些細な動作ひとつにも手がかかり、母の体調や精神状態に一喜一憂する日々だったと記憶して
います。
この頃、母はひどい頻尿で、昼夜問わず ふらつく足取りで何度もトイレを往復するので、転びはしないかと付き添って歩かねばなりませんでした。
夏のある日、手すりにつかまりながら、トイレに向かう廊下で立ち止まっている母を見つけて声を掛けました。
うんともすんとも返事をしないので、聞こえてないのかと思い そばへ行くと、
立って手すりを握った状態で意識を失っていて、びっくりしたことがありました。
すぐ救急に連れて行き、大したことにならず、その日のうちに家に帰れました。脱水症状でした。
夜の頻回のトイレ通いで本人も私も睡眠不足に
なるので、色々な病院に相談に行ったけれど、
精神的要因もあるのか なかなか解決の糸口が
見えず、一時は昼に導尿(管を入れて尿を出す)してもらっていた時期もありました。
田舎へ来てあらためて介護認定を受け(要介護3でした)、週3日デイサービスに通うことをお願いしました。
ベッドの上でじっとしていては、どんどん寝たきりに近づく
ばかり。人と接し活動することで、よい方向に向かうことを
祈って…。
受験生の娘
母の介護と仕事に追われる日々の中で、もうひとつの
心配は娘のことでした。
田舎の高校は、進学校とはいえ、そこまでレベルが高い
わけではなく、高校受験は難なくクリアし進学できた娘。
幸いなことに、私たちの新しい家となった借家から娘の
通う高校までは徒歩5分、という好立地でした。
通学の負担が少なかったことは、本当に助かりました。
ただ、田舎の進学校は朝夕の課外授業がびっしり詰まっていて、娘は毎日の
課外授業量の多さに辟易してました。
しんどい、しんどい、と言いながらも、よく頑張ってたと思います。
3年後に京都に帰ることを見すえて、大学は京都の実家から通える学校に絞って
もらうことにしました。
母の介護と仕事でいっぱいいっぱいやった私は、娘に
「〇〇ちゃんは大丈夫や、と信用してるし、自分の
ことは自分でちゃんとやってや、頼むで」と、何とも
雑な言い方で(笑)お願いしていました。
それだけの言葉でちゃんと母の気持ちをくみ取って
「うん」とうなずいた娘。
私は本当に娘を信頼していました。
実家の片付けやリフォームの準備のために私が京都に帰るときには、
母をデイ施設のショートステイに預けました。
不安じゃないかな、大丈夫かな、数日間分の着替えや紙おむつ等の
荷物を詰めながら、慣れない場所で過ごす母を想いました。
娘は家で一人の留守番。
そっちの方もすごく心配やった。
田舎とはいえ、何か事件にでも
巻き込まれたら…。
何があっても、火の元と施錠の確認、健康管理には十分注意するように、と
言い聞かせ、数日間を一人で過ごす
ことを絶対に誰にも口外しないよう言い聞かせ、お金と作り置きのおかずを準備しました。
そして、私に何かあった時に備えて、親戚や知人の連絡先を伝え、私のネット
バンク口座のログイン情報などを便箋に書いて封を閉じ、私にもしものことが
会った時だけ開封するよう伝えて手渡しました。

Image by Tamires Reis from Pixabay
心配しながらも、娘の自立を信じて任せていた日々。
思春期における葛藤と進路への不安を抱え
ながら、精一杯私を助けてくれていたと
思います。
仕事復帰と家事の両立
実家の片付け・リフォームを決意
母の介護と家事、仕事のに追われる中で、
私はひとつの決意をしました。
それは、遠方にある実家を片付けて、
リフォームをすること。
いずれ京都へ帰った時、寒がりな母を快適に直した実家に住まわしてあげたい!
私たち3人が心地よく暮らせるようにしたい!
しかし、実家は遠い遠い京都。
実家の片付けを遠方から進めるというのは、簡単なことではありません。
家の中には物があふれ、手をつける前から気が遠くなるような状態。
築年数が古く片付けと同時大規模なリフォームの計画も必要だと
感じていました。
実家をどう整理し、どう活用していくのか。
行ったり来たりで無理しながらも片付けの方は進めていくしかない。
でも、遠くにいて立ち会うこともできない状態で、リフォームするって現実的に可能なの?!
頭の上には大きな大きなはてなマーク。
「それでも、やるしかない!!」
そう自分に言い聞かせて、まずはカレンダーをくり始めました。
仕事や娘の学校行事に差し障らないようにして、実家へ帰省できる日程を
ピックアップし、片付け計画を立て始めたのです。
心の支えとなった恩人
母の介護、娘の受験、仕事復帰、実家の片付けとリフォーム計画。
私は日々、必死で走り続けていました。
夫の元を飛び出した時は、出た時の勢いこそ
よかったものの、悔しくて悔しくて、一生分の涙を流したのではないかと思えるほど、毎日泣きくれていました。
自分の元にいてほしい、と彼が望んだことは事実であっても、たとえカッと
して勢いで出た言葉だったとしても、言ってはいけない言葉を吐いた彼が
悲しかった、それと、母や娘を巻き添えにした自分が情なかったのです。
そんな時、ずっと私を支えてくれていたのは、
「恩人」
の存在でした。

UnsplashのAnastasia Pivnenkoが撮影した写真
彼女はそもそも夫の知人として出会った人
やったけど、知り合ううちに私の方が仲良く
なって、一時私が彼女の事業のお手伝いを
したことがあったのでした。
夫への不信が積もり始めていた頃、
「何かあったら相談にのってね」なんて
冗談めかしに言っていたのが、こんなにも早く現実になるとは…。
私がこんなに突然に家をとび出せたのも、
この方のおかげでした。
家を出たその足で相談に行ったら、すぐに状況を察して、彼女が所有する借家の鍵を差し出してくれはったのです。
血のつながりがなくても、心がつながる人との出逢いって、人生の中であるもんなんやなぁ…。
忙しい仕事の合間に電話を掛けても、
「あんたは間違っとらんて」
「大丈夫、見る人は見てるから!」と、
くり返しくり返し私を励ましてくれました。
京都での片付け作業に行くときも、
「気ぃつけてな」、
「すごいなぁ、頑張っとるねぇ」
と労ってくれたのです。
言葉の力って、ほんまにすごい。
人の優しさって、温かい。
あのとき彼女がいてくれへんかったら、私はもっとボロボロやったやろう。
私の人生の転機に出逢った「恩人」。
感謝してもしきれない。
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